須坂の歴史、伝承

村山橋

村山

長野県の県庁所在地である長野市と須坂市は隣同士ですが、その間には「千曲川」が流れています。
長野市からは国道18号より国道406号にのり、須坂市に入ることができるのですが、その際に通る橋は「村山橋」と呼ばれています。

蔵づくり

広域

そもそも蔵づくりとは・・・。

色々な資料をみると「大壁作り」や「蔵作り」、「土蔵作り」などを見かけますが、一番の違いは火災に対する強さの違いのようです。

村石の庚申塔

亀倉

石祠の裏に「享保七年壬寅八月日」とあり、側面には「右須坂 左善光寺」と刻まれています。

この場所は「大笹街道」と「善光寺道」の分岐点で、享保7年頃に関東方面から大笹街道を経て善光寺への参詣者が多くなったことから、道標として建てられたものと創造されます。
享保7年は「村石村」開村60年の年にもあたるのですよ。

参詣者には嬉しい道標ですね。

先に書いた「地蔵堂」の中には5体の地蔵が安置されています。

招魂社

須坂

清泉亭の春日灯籠

須坂

越寿三郎は、長野県須坂市が製糸業で栄えていた頃に、製糸王と呼ばれた偉大な人物。

「越寿三郎」が22歳だった明治18年に製糸結社「俊明社」の創業と共に入社。
明治20年には自ら「山丸製糸所」を創業し「山丸組」を創立しました。
その後、俊明社の取締役社長になったり上高井銀行(現八十二銀行)を創立したりと、ここでは書ききれない程の偉業を成し遂げるのですが、その偉業の1つに明治36年に製糸工場の合理化を目的とした「信濃電気株式会社」を創立があげられます。

信濃電気㈱は、後に買収、合併をして、現在の中部電力の元である「

秋葉大権現碑

八町

この碑は総高が3.5mにもなる大きな石碑で地域では「秋葉さん」と呼ばれ親しまれているそうです。

太子堂

須坂

太子堂は、全国各地にありますが、須坂の太子堂はいつ頃から祀られ、現在のお堂がいつ建立したのかさえも確たる資料が残されていないのわかりません。

現在に残された数少ない資料を調べてみると、
元々「太子町」の地名は「太子堂」→「太子堂町」→「太子町」と時代と共に変わってきたのだそうで、

坂田浄水場

坂田

須坂市を流れる米子川、百々川、松川などの河川の源には硫黄鉱床があり、その水質は強い酸性を示します。こういった川は「酸川<スカワ>」と呼ばれていて、これほど酸川が集中している地域は全国的にも例を見ないのだそうです。

明治初期まで町の中央を流れていた百々川の水は「裏側用水」によって町内のいたるところに行きわたって、飲料水や製糸用水に使われました。

ふれあいの館しらふじ

須坂

この建物は江戸時代に須坂藩の要職を務めた浦野家が須坂藩邸の西隅を固めるように建てた建物で、明治初期に新築された3階建ての土蔵と大壁造りの長屋門が残っています。
以前は門の右側に3階建ての物見櫓があり、氷水屋が営まれた時代もあったそうですが、昭和40年に壊し改築されたそうです。

福島宿の馬頭観音騎乗像

福島

須坂市福島町は北国脇街道の主要宿駅、大笹街道の起点として栄えました。

福島町の北入口の堤防横に「馬頭観世音」があります。
昔の資料で見ると「馬頭観音騎乗像」となっていますが、どちらが正しいのかはわかりません。

裏川用水

広域

須坂で製糸業が栄えた理由として、
・須坂には谷街道、草津街道が合流する辻(中町の辻)があり、関東に繋がる大笹街道が通っていることで近隣都市からの物資が集まり易かった。
・須坂は昔から米粉や菜種油などの加工業が多く、各個人商店の裏に水車を設けてあり、その水車を利用しての器械製糸に転換しやすかった。

延命地蔵尊

須坂

この延命地蔵尊の言い伝えは次の通りです。

昔、高井郡の宗石という地籍に賛願寺という寺がありました。
延命地蔵尊はその寺に祭られていましたが、百々川の洪水により寺が流されてしまいました。