寿泉院境内

国定忠治地蔵

須坂市上町の寿泉院境内に国定忠治地蔵が置かれています。

「国定忠治」とは、本名を長岡忠次郎といい、江戸時代後期に実在した「強きを挫き、弱きを助ける」という侠客(きょうかく)の代表的な一人です。
天保の頃、江戸幕府は体制の弱体化による汚職や政治の乱れが起こっていました。そんなときに起こったのが天保の大飢饉です。
地方の農村では貧困が加速し、飢餓する人も多く現れていました。
そんな中、国定忠次郎は自ら開いた賭場によって稼いだ金で灌漑用の池を作ったり、時には金を施すなどして縄張りの人々を救ったのです。

 

その反面、忠治は大戸の関所を二度破るなど大罪を犯した人物でもありました。
1850年12月21日、自ら破った大戸関所で磔の刑に処せられました。

「強きを挫き、弱きを助ける」という国定忠治の生き方は庶民の絶対的支持があり、今でもその存在は語り継がれている人物なのです。

 

 


寿泉院境内に建立されている国定忠治地蔵には
「嘉永三年 国定忠治像 十二月二十四日」
「世話人 畔上つま 石工 服田実」
と彫られています。

「畔上つま」は、野沢温泉村出身で、一時、国定忠治が渡世修行として北信濃に足を運んだ折に忠治に魅了され親密な関係となった女性とされていました。
その後の調査で、世話人の畔上つまは忠治の処刑後に生まれていることがわかり、親密な関係であったとはいえなくなったのです。
国定忠治地蔵を建立した理由として「中風よけ」、今で言う脳血管障害よけという説が有力です。


国定忠治地蔵建立の経緯については以下のように伝えられています。

昭和3年に上町に住んでいた北村金之助氏の元に、俳友であった立町に住んでいた畔上氏から
「祖先が建立した国定忠治の地蔵が野沢温泉に放置されている。是非上町の守り神として貰ってくれないか」
という相談が持ちかけられました。

当時の上町の大御所達が相談した結果、一時青木屋に安置することになったそうです。
それから二十数年後の昭和25年に、寿泉院の境内に建立されることになりました。

昭和50年に国定忠治の研究をされている群馬県佐波郡東村教育委員会の野口氏が訪問された際に、
「地蔵の建立日が忠治が亡くなって三日ぐらい後になっているので、畔上氏の祖先は相当近親の人に間違いがない。」
ということを確認されました。
しかし、先に述べたとおり、建立者である畔上つまは忠治が処刑された後に生まれています。

建立日を間違えたのか、それとも他に何かあるのかは、今となっては謎となっています。





国定忠治地蔵

住所:寿泉院境内
名前:国定忠治地蔵
取材日:2011/09/07
更新日:2021/10/27

参考文献

上町だより昭和53年12月30日号<上町分館>
国定忠治おんな列伝<渡辺明著>

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