現在の須坂市を横断している「大笹街道<オオササカイドウ>」は、
その名の通り須坂福島宿と大笹宿を結んでいた江戸時代の幕府公認の公道でした。
大笹街道は中山道<ナカセンドウ>の沓掛<クツカケ>までの最短街道として、物資輸送上重要視された街道だったのです。
僕が住んでいる須坂方面から大笹に向かうので「大笹街道」と呼んでいますが、反対に大笹の人たちはこの街道で須坂(信州)へ向かうので
「仁礼街道」「信州街道」と呼んでいるのだそうです。
北信濃最大の観光名所といえば「善光寺」。今でも善光寺に訪れる観光者はとても多いですが、江戸時代にも全国より多くの方が参拝に訪れました。
関東方面からの参拝者の多くがこの大笹街道と通ったのです。
多くの参拝者がこの街道を通ったという痕跡は、
今でも大笹街道沿いに残されている「善光寺」の名前が刻まれた道標に見ることができるのです。
そして今回紹介する道標もその中の一つ。
須坂市栃倉地区の旧道に、大笹街道の分岐点があり、道標が置かれています。その道標には、
「左 ぜん光寺
右 すさ加」
と刻まれています。
大笹街道は須坂市の福島宿が起点とされているはずなのに、須坂中町方面から続く道もあるのですよね。
それでは街道が2本あることになります。
実は、僕はつい最近までこのことを不思議に思っていたのです。
最近になり、旧須坂の産業(油、煙草、製糸)が盛んになるにつれて、須坂方面から続く道も商人などに多く使われることとなり主要道として「大笹街道」と呼ばれるようになったそうです。
このことを僕は最近知りました。
その2本の大笹街道の合流点であり、大笹方面からの訪問者からすれば分岐点でもあるこの栃倉にこの道標が置かれたのです。
また、その後ろに建立されている「南無妙法蓮華経碑」は、険しい山道を越えてこられた事への感謝、あるいはこれからの旅路への安全祈願を込めて建立されたものです。
その碑の大きさからも、旅の安全祈願への気持ちと
実際に死者がでたという記録も残されてるほどの大笹街道の険しさが実感できるのです。