長野県須坂市の鎌田山に江戸中期以降長野県唯一、美術的茶陶を世に残した窯がありました。
弘化2年(1845)、須坂藩11代藩主堀直格のよって、江戸より陶芸家「吉向」が招かれます。
天保15年(1844)の一時視察によって、窯の場所は鎌田山の麓が選ばれました。
この場所は山に囲まれた場所で、風の通りがよく、地理的に窯を作るのにむいています。しかも近くで粘土質の土が取れたので利便性も良く、吉向はこの場所に窯と工場と住まいを設けたのでした。
風景がよく、松の翠と紅葉が美しいいので「紅翠軒<コウスイケン>」と名づけ、焼けた焼き物は「吉向焼」といわれました。
「紅翠軒」は山の傾斜を利用した「登り窯」で、下から上へ勢いよく炎が上がっていく構造です。
10もの窯が並ぶことによって、高温を得る事ができ、硬い焼き物を作ることができたそうです。
養子の一朗と赴いた吉向は3ヶ月を費やし窯を作り製陶したのだそうです。
弘化2年8月に初窯として「青華桐花水指」という作品が出来ました。
吉向を須坂の地に招いた理由の一つとして、須坂藩の財政難復興がありました。
高級な茶道具を焼く傍ら、「善光寺紋香炉<ゼンコウジモンコウロ>」を大量に焼き、善光寺参拝客の土産品として売ろうと考えたのです。
しかし、弘化4年の善光寺大地震によって、製作した善光寺紋香炉は欠けてしまった上に登り窯も壊れてしまうという大損害を受けてしまったのです。その他地震の影響で千曲川が氾濫するなど須坂藩の財政はますます切迫してしまい、製陶は8年で終了してしまったのです。
吉向の須坂での製陶した時期は吉向の晩年期に当たり、彼の陶技がもっとも円熟した時期なのだそうです。なので須坂に残っている吉向焼は秀作が多いのだとか。
吉向が須坂を去ることは須坂の文化向上にとっては残念な事でしたが、吉向が去った後、後窯を利用して吉向の弟子が「須坂焼」を焼き「松代焼」にも高山村の藤沢焼きにも大きな影響を与えるなど吉向は北信濃の陶業に多大な功績を残したのです。
現在、吉向焼の窯は一部が復元され見ることができます。