古代の人々が生活していく中で、自然は多くの恵みを与えてくれるものであり、同時に災害をもたらすものでした。
自然と人々はそうした「自然」を祀り、崇拝するようになります。
最初は崇拝する対象として山、大木、岩(石)を選んでいたようですが、そのような自然物の場所に建物ができ、自然物崇拝から、建物内に「神」が祀られるようになったのだそうです。
そうして今日に近い神社が誕生したと考えられています。
10世紀に初めにまとめられた「延喜式<エンキシキ>」の「神名帳」に記載されている神社を「延喜式内社」と呼びます。
高井郡の延喜式内社として6社が記載され、その6社の内須坂市にある神社は3社です。
この3社は少なくても10世紀初めには成立していたとされています。
その後「延喜式内社」という格式は、平安時代以降の武士中心の社会になると消えて、多くの神社が武神である「八幡社」の名前をつけたのです。
再び「延喜式内社」に注目されるのは明治時代になってからなのですよ。
実際には先ほど上げた「延喜式内社」6社も色々な資料を元に江戸時代以降に考えられた結果なのです。
越智神社の祭神は「饒速日命<ニギハヤヒノミコト>」と「健御名方命<タテミナカタノミコト>」です。
「饒速日命」は物部氏の祖神と伝えられている神で、物部氏は越智氏の本流なのですよ。(確か信濃にも越智一族が勢力を伸ばしていたなぁ。)
その他、由緒や創立年月日を記した書物は永禄年間の兵火によって焼かれてしまい残っていないそうです。
須坂市史には
「延喜式内社」は稲の豊作を祈るための神社としての色が強いそうで、これは古代の集落地と重なるのではないか。
とつづられています。
墨坂神社ある墨坂地区。小坂神社のある井上地区。そして越智神社のある幸高地区。
幸高地区の歴史はなかなか触れたことが無いので、今後調べるのが楽しみです。