六角堂の縁起とは・・・
その昔、淡路の海中から1寸8分(約6cm)の「如意輪観音<ニョイリンカンノン>」が見つかり、聖徳太子は肌身離さず大切にしていました。
聖徳太子が京都に行ったときに、木にかけた仏様が木から離れず、そのままにしておくと、その夜夢にお告げがあったそうです。聖徳太子はその場所に六角のお堂を造り「如意輪観音」を安置したそうです。
須坂市の「六角堂」は、
八幡長者といわれる郷士の屋敷の鬼門除けとして建てられたと伝えられています。もちろんご本尊は京都の六角堂と同じく「如意輪観音」なのですよ。
現在建てられている「六角堂」は明治36年に再建されたもので、もともと「いつ」「何処に建てられていた」かは、はっきりわかっていないのです。
現在の「六角堂」のある馬場町辺りは以前「字六角堂」という地籍がついているので、かなり昔(鎌倉時代頃)からこの辺りに「六角堂」があったものと考えられています。
器械製糸業に優れた立地条件にあった須坂市は、明治10年頃に器械製糸業を始め、明治30年頃には名実共に生糸の町となりました。
須坂市各地にあった製糸工場で働いていた工女さんは6000人にもなり、過酷な労働を課せられていました
その多くの工女さんは、全ての悩み、苦しみを33変身もして救ってくださる観世音。 特に「如意輪観音」には「如意」(意のままに行う説法)を行って全ての人の苦しみを抜いてくださる観音菩薩としてあつく信仰をしていました。
その気持ちは、「六角堂」再建の寄付募金の奉加帳である「観音堂再建化簿」に”○○製糸工場女工一同”といったように書かれているものが数多いことからもわかります。
昔より地名ともなり、この地に深く根をおろしている「六角堂」。
古くは郷士、町民、工女とそれぞれの時代の須坂住民の信仰を受けてきました。
なかなか昔の資料が残されてなく、未知な部分が多い史跡なのですが、これからは後世に残すためにも重要な資料を大切に残していくことが必要ですね。