明治時代から昭和にかけて須坂市は「製糸業」が盛んでした。
市内のあちらこちらに製糸工場がつくられ、沢山の人々が製糸業に携わり、須坂の町が発展したのです。
町が発展し、人口が増えると自然に人々の娯楽場所も増えます。
そのような時代背景から、現在の須坂市の市街地には、芸者が出入りした料理屋や「花街」と呼ばれる飲み屋街の名残を見ることができます。
また、信州医療センターと勝善寺を結ぶ「病院新道」、現在の本上町は「三区」と呼ばれた花街でした。
”駅を降りると蛹の臭い、三区へ上がってくれば白粉の臭い”
ともいわれた町です。蛹<サナギ>とはもちろん繭の中の蚕<カイコ>の蛹のことで、白粉とは芸者がぬる「おしろい」のことです。
うまい事言ったものですね。
当時の須坂市が製糸業で栄え、花街が賑やかだった様子がわかります。
当時、病院新道だけで6軒の置屋、検番、料理屋があって、80人もの芸者がいたそうで、朝は三味線の稽古の音、午後には近くの「亀の湯」という銭湯まで向かう「ポックリ」の音が通りに響いていたそうです。
そうした芸者が夕方には市街のあちらこちらの料亭、料理屋に向かっていったのです。
今もこの通りを通ると三味線の音が聞こえてきそうな・・・そんな風景を残しています。