北原町

青木小路

須坂騒動の際に一揆衆が通った小路

長野県須坂市の劇場通りのほぼ中央に、道幅が3mほどの両側に土蔵が並んだ小路があります。

この小路は「青木小路」と呼ばれ、よほど気をつけていなければ通り過ぎてしまう位の小路なのです。
この小路は、明治3年に起こった、のちに「須坂騒動」と言われた大規模農民一揆の際に、一揆衆が通過したと記録の残る数少ない道なのです。

明治3年12月17日より始まった「須坂騒動」には須坂藩支配の全村が参加して、総数が1500人にもなったそうです。
その際、家屋の焼失、打ちこわしが122件も行われ、須坂の沢山の土蔵や酒蔵が焼かれました。田中本家の一部や小田切家もこの一揆の際に焼かれたと伝わっています。

その後須坂騒動は明治新政府のおひざ元、中野県庁を直撃する中野騒動に続きました。



劇場通りを背にして右手は明治期に製糸を営なんだ「中屋酒食料品店」。左手はスミサカ産業。スミサカ産業側はぼた餅石積みに切り石、そして重厚な築地塀が立っています。塀の向こうには土蔵と木造3階建ての繭蔵跡が見えます。スミサカ産業は「旧青木屋製糸所」なのです。



青木屋を営んでいた「青木甚九郎」は須坂製糸業の指導者と呼ばれた人物です。
青木甚九郎は嘉永7年に須坂糸師仲間の一人として、生糸商を営みました。甚九郎は横浜に出荷しましたが、当時は良品が少なく、粗製濫造品が横行してしまい明治政府より製品の改善指示を受けます。そこで明治6年に生糸改会社が設立され、牧茂助が社長、青木甚九郎が副社長を務めることとなりました。
その後、より良い製品をで出荷量を増やすため、富岡製糸場を視察し、明治7年に座繰製糸から水車動力による器械製糸をいち早く導入しました。
明治8年には日本で初めての製糸結社「東行社」を設立して、須坂製糸発展の基礎を築いたのです。
須坂製糸業発展のための熱意が認められ、国家は明治24年に緑綬褒章を贈りました。

須坂の製糸業の発展により多くの民衆が製糸業に携わりました。

幕末から明治に変わる時の民衆の不安や不満が爆発した「須坂騒動」とその後の須坂の製糸業を引っ張っていき民衆の雇用を増やした「青木屋製糸所」。なんとなく接点がある二つが重なり合う場所がこの「青木小路」なのです。

青木小路

住所:北原町
名前:青木小路
取材日:2005/07/30
更新日:2020/03/30

参考文献

信州須坂の町並み<青木廣安著、丸山武彦絵須坂新聞社>
須坂市人物誌<須坂市人物誌編集委員会>
その他参考資料

掲載している探検隊スペシャル