常盤町

招魂社

戦死者を祀る

江戸時代に須坂藩として須坂地方の13か村を治めていた堀家は現在の須坂小学校、須坂公民館、奥田神社付近に館を構えていました。

江戸時代が終わり「廃藩置県」によって須坂藩は須坂県と名が変わると、当時の旧藩主「堀 直明」も東京住まいを命じられます。
明治5年2月に須坂藩「館跡地」が東京鎮台に引き渡され、館を取り壊されてしまいました。

その後、明治14年に「堀 直重」(初代須坂藩主)と「堀 直虎」(13代須坂藩主、江戸幕府若年寄兼外国惣奉行)をお祀りした「奥田神社」が完成し、その境内に「招魂社<ショウコンシャ>」が置かれたのです。。


明治5年5月に陸軍省宛に出された「長野県内戊辰戦争従軍戦死者取調進達書」によると、明治元年4月16日に下総国茂呂村において新政府軍と幕府軍と間で戦いがあったそうです。

「長野県内戊辰戦争従軍戦死者取調進達書」を読むと、
戦いのなかで須坂出身の男子、土屋要助慶氷(28才)武田幸三郎惟孝(18才)竹村源九郎知定(58才)藤沢八作信正(18才)雨宮六五郎政度(38才)壕内半平茂春(37才)中沢要作慎言(34才)の七名が戦死をし、18日に下総国高崎村にて山嵜与作良知(28才)が茂呂村の戦いの怪我が原因で戦死した
と記述があります。

この「招魂社」は戊辰戦争で官軍として須坂より出兵し、戦死したこの8名の兵士を祀った神社です。
毎年4月16日、17日には招魂祭が行われます。

その後この招魂社には日清戦争、日露戦争を始め、太平洋戦争までの諸戦役の戦死者を合祀しました。

江戸幕府の若年寄兼外国惣奉行まで任され、幕府に忠誠を示し切腹した「堀 直虎」を祀った「奥田神社」。
その境内に幕府と戊辰戦争で「官軍」として戦い戦死した者を祀った「招魂社」が建ちます。

この二社は「江戸幕府」「官軍」と相反するもののように思えますが、「愛国」と「須坂を守る」という志は同じだったのです。




招魂社

住所:常盤町
名前:招魂社
取材日:2005/11/15
更新日:2020/03/30

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