穀町

北向観音堂

豊太閤護持仏を安置した

長野県須坂市「中町の辻」より西へ、大笹街道(国道406)を仁礼方面に行くと本町通りから観音通りへと抜けます。



中町の辻を背にして左側に観音様を祀った「北向観音堂」があるので「観音通り」とつけられました。

この「北向観音堂」に祀られている観音様は像高20.4cm、台座と合わせた総高が26.5cmで、柴金<サイキン>で作られた金剛仏です。
柴金とは赤銅<シャクドウ>のことで、銅に8%以下の金と微量の銀を加えたものなのですよ。
製作者はインドの「毘首羯磨<ビシュカツマ>」だと言い伝えられています。

この金剛仏のいわれは次の通りです。

インドで作られたこの仏像は、中国、朝鮮へと移り、「文禄の役(1592)」で朝鮮に出兵していた宇喜多秀家が国王から譲り受けて持ち帰り、豊臣秀吉に献上したのです。
秀吉はこの仏像を大阪城に祀ったところ、度々の災厄から免れることができたため、厄除け観音といわれ、「豊太閤護持仏」とも呼ばれたそうです。
初代須坂藩主 堀直重の父方は尾張国(愛知県)中島郡奥田の出身で豊臣秀吉に使えていました。しかし直重は「大阪冬の陣・夏の陣」で徳川家の証人(人質)として徳川側に使え、そこで手柄を立てたことで徳川秀忠よりこの観音像を賜ったのです。

以上ですが、どこまでが真実かは定かではありません。

直重が元和2年(1616)に観音堂を建立し観音像を祀ったとされ、開運・出世・厄除けの観音様として信仰されています。

その容貌といい、姿といい、異国風の造りで異国より伝わったのは間違いないようです。
毎年8月10日の祭礼日では、この観音様を拝むことができるのだと思いますよ。

観音堂は平らな土地にわざわざ舞台づくりとしてつくられています。堀家の宝物である観音様を祀っていたということで堀家の家紋「亀甲卍」が誇らしげに飾られています。

観音堂の舞台の上からは須坂小学校が良く見えました。
観音堂が建立した当時は須坂藩のお屋敷が良く見え、城下町も良く見えて眺めが良かったのでしょうね。



北向観音堂

住所:穀町
名前:北向観音堂
取材日:2005/10/29
更新日:2020/03/30

参考文献

ふるさと須坂<須坂市教育委員会>
新撰須坂市の文化財<須坂市の文化財調査会>
ふるさと歴史マップ<須坂市公民館>

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