伊能忠敬日記による須坂の紹介

江戸時代、初めて実測による日本地図を作った人として有名な「伊能忠敬<イノウタダタカ>」という方がいます。
その「伊能忠敬」の測量日誌である「伊能忠敬日記」を読むと須坂地域も細かく測量を行ったことがわかるのです。

日記によると文化11年(1814)5月3日、4日にわたって測量が行われたのだそうです。
朝6時頃に飯山を出発した一行は中野、小布施と測量し、現在の相森街道から須坂に入りました。「相森神社」の前を通り須坂村に入ります。江戸時代は小布施、相森地区は松代領だったのですよ。

その時代の小布施の人家が408軒に対し須坂村の人家は382軒であると記してあります。もちろん須坂は今ほどの広さはないのですが、須坂の方が人家の件数が少なかったのですね。

現在の春木町ロータリー付近を左折し「浄念寺」前を通り、須坂の中心である中町へと向かいます。それまで進んできた道は「谷街道」なのです。
その日は、上町の田中新五右衛門宅で一泊し、よく5月4日に芝宮神社前を通り鮎川(本文では「無水河原」と紹介されています。)を渡り綿内方面に抜けたのだそうです。

二日で中野から綿内までぬけるとは、かなりの早足ですね。

また、本文では「八木沢川」を「柳沢川」と紹介してあったりと細かな違いはありますが、神社のある位置、町の様子などは、ほぼ正確だったのでしょう。

あの有名な「伊能忠敬」が須坂を測量していたとは驚きです。
「伊能忠敬日記」を読むと他にも当時の町の様子がわかりかなりおもしろいですよ。

機会があったら細かく読んでみたい資料です。



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