市川佐次右エ門碑

江戸時代、徳川幕府は全国の交通を制限し、江戸を中心に五街道を設け、各地に関所を設け交通の取締りをしました。
五街道の他にも脇街道があり、それら街道の宿場町は賑わっていたのです。

今の長野県には北国街道がとおり、その脇街道として大笹街道がありました。
大笹街道より途中で分かれ須坂市豊丘村より群馬県吾妻郡妻恋村に抜ける街道として「三原街道」がありました。三原街道は官許の街道ではありませんでしたが、関所や難所が無く、参勤交代の大名行列も通過しなかった上、その他街道より多少険しいものの江戸へ通じる最も近い道として賑わったのです。
その荷物運搬に使用していたのが「牛」だったのです。


その後、三原街道の往来が激しくなるにつれて、荷物を運搬する牛の頭数が増加しました。




須坂市豊丘地域の旧園里学校手前の「アズマヒガン」下に「市川佐次右エ門碑」があります。


市川佐次右エ門は明治12年に園里村の戸長として、またその後の市町村制実施による村長として長年公職に専念しました。

公職を引退後、三原街道の荷物運搬によって使用され増加した牛を五味池周辺に放牧することによって、効率良く牧畜業を行なうことを飼育者に認識させ、明治15年に「灰野牧畜改良会社」を設立したのです。
その後「灰野牧畜改良会社」の地域および組合人数が拡大し「北信産牛組合」にかわり、初代組合長としても畜産の改良増殖に生涯、力を入れたのです。

そのような「市川佐次右エ門」の功績を讃えて頌徳碑を設けました。

明治時代より現在まで豊丘地域や菅平地域では酪農が盛んに行なわれています。
その原点の1つは三原街道の荷物運搬に牛が使用されていたことが挙げられると思います。そして何よりもその牛を育てる上で効率の良い放牧という形式をいち早く飼育者に指導し、現在の酪農システムの礎を作った「市川佐次右エ門」の功績は大きいのだと思うのです。





市川佐次右エ門碑


名前:市川佐次右エ門碑
取材日:2006/06/13
更新日:2020/08/26

参考文献

豊丘村誌<豊丘村誌編集会>

掲載している探検隊スペシャル