関山国師生誕の地

今からおよそ800年前の養和・寿永<ヨウワ・ジュエイ>の戦乱で、木曽義仲は信濃の軍勢をひきいて京に攻め上がりました。
その結果、たとえ短期間でも全国制覇を成し遂げたのです。

信濃出身者が天下に向けて号令したのは先にも後にもこの1回限りです。

その「木曽義仲軍」の主力は東北信勢であり、
特に北信からは穀物が多く獲れ、経済力のあった日野地域の
「高梨氏の軍」が出兵したと考えられています。


そんな高梨氏は現在でも「高梨町」として名が残っているほど影響をもった氏族なのですが、
その一族の中に南北朝時代の名僧「関山国師<カンザンコクシ>」がいるのです。

現在国道406号の沿いに「無相大師誕生地碑<ムソウダイシ>」が置かれています。


関山国師は南北朝時代の初めに花園上皇に召されて美濃井深<ミノイブカ>の隠棲地<インセイチ>を出て、京都花園にて「妙心寺<ミョウシンジ>」を開きます。
妙心寺は高井源氏伝統の質朴な禅として室町時代には地方諸侯の信仰を得て、妙心寺派として全国に4000寺を超える大宗派となりました。


さて、関山国師の出生地については色々な説があります。

「高山生誕説」
「中野生誕説」
それと「須坂生誕説」。

色々な説が考えられる要因として、
国師は己を語ることを嫌ったために記録が残されていない
事があるのです。
唯一残された妙心寺の縁起「正法山六祖伝」には

「師諱<イナミナ>は慧玄。(関山国師の生前の名は慧玄という。)
信州の人なり。俗姓は源氏。高梨高家の孫なり」

と記されています。
このことから高梨家の出身であることがわかります。

では、
関山国師生誕の頃に高梨氏はどこに館を構えていたのでしょうか?

上高井歴史によると
康平7年(1062)の初代盛光から14代、四百十二年に渡って本郡(日野地区)にあり
といった内容が記されています。
また、高梨には関山国師にまつわる伝承も多く残されている事などから考え、
「関山国師の生誕地は高梨町」
とされているのです。


全国4000寺にもなる「妙心寺」の開祖が須坂市出身者だとはびっくりですよね。
この事を知る須坂住民がどれほどいるのでしょうか?
(僕も知りませんでした)
こういった地元の誇りを是非とも須坂市民に知っていただき、「郷土須坂の自慢」の一つとしていただきたいものです。





関山国師生誕の地


名前:関山国師生誕の地
取材日:2006/09/25
更新日:2020/10/06

参考文献

ふるさと須坂<須坂市教育委員会>
須坂市石造文化財<須坂市教育委員会>
当地立て札<関山国師奉賛会>
その他参考資料

掲載している探検隊スペシャル