須坂市坂田町の産土神(うぶすなかみ)の神社は坂田山の麓にある坂田神社です。
この坂田神社は昔から「狐宮」とよばれています。
坂田神社なのに狐宮とよばれるには、この地に伝えられている「おーいコンコン」という話が元となっていることはあまりしられていません。
そこで坂田町の老人から聞いた「おーいコンコン」をご紹介します。
おーい コンコン
むかーしむかしのお話です。
まだ人間が少なかったその頃。
坂田山のふもとに、狐達がひっそりと住む集落がありました。
その頃は、人間と狐の住む場所ははっきりと分かれていて、距離もあり、どちらのじゃまをすることもなく
平和に暮らしておりました。しかし、次第に人間が増え、狐の住む坂田山の麓にまで住処を構えるようになったのです。
この狐達。
元は今の中野市の桜沢にある狐の村の分家。とうとう、狐村の本家よりこちらへ移り住むようにとの声が届きました。さて、それを悲しんだメス狐がおりました。
このメス狐。坂田山の中でもたいそう美しいと評判の狐でした。実はこのメス狐。悲しむのには理由がありました。
山に迷い込んでしまった人間の若者と恋に落ちてしまっていたのです。
二人は恋仲になり、夜な夜な会っておりました。
いよいよ狐の村の移動の夜、人間の若者に最後の別れを告げて、メス狐は皆と坂田山をあとにしました。
その夜、雁田山には、狐火の行列が見えたそうです。人間たちは、狐を敬い、坂田山の麓にお宮を建てました。
お宮の祭りには竹の柱を一本建てて舞を踊ります。
メス狐と別れた村の若者は、彼女を想いながら、その柱の上で舞を踊りました。「おーい、コンコン。おーい、コンコン。」
その舞は継承され、年に一回、村の代表の若者が柱の上で舞を踊ることになっています。
すると、どこからともなく狐が現れ、踊る若者を眺めているそうです。
この話は口伝によって伝えられています。
町の老人にお聞きしたところ、子供だった頃に隣りに住んでいた幕末生まれの老婆が繰り返し話をしてくれたそうです。
今では、坂田神社で行われる舞も伝えられておらず、「おーいコンコン」の話も口伝されていないとのこと。
本当にあったのか、無かったのか。
この地域に昔から伝えられている話により、今でも狐宮の名前だけが伝えられています。