遠山茂太郎は日清、日露戦争に出征し、その戦功により正八位に叙せられ、勲六等功五級金鵄勲章を授与され、陸軍歩兵少尉に任官した。
明治42年5月に豊洲村村長に就任、当時は牧入役、助役の前歴者が村長に推されるという前例を破っての就任ということで、村民より大きな期待を受けた。
村長就任後間もなく、病となり明治43年4月、45歳という若さで死去された。
私設消防団の初代団長を勤めるなど人柄がよく、人望を集めた人物で、補習学校の前身である夜学の教師を勤め、近隣の青年男女に請わられて塾教育に携わったこともあり、「黙堂」と号して書を能した。
大正4年5月に村内の有志によって、江岸寺門前に頌徳碑が建立されました。