屋部町

少将出し

長野県須坂市の旧須坂町地域は「市川扇状地」の右半分にあたります。

米子川と灰野川の合流から小山、野辺、米持を流れる百々川は昔「市川」と呼ばれていました。
日ごろは水の少ない「水無川」ですが、ひとたび大雨が降ると荒れ狂い、上流より土石流となって押し出し、平地にて乱流しながら土砂を堆積したのです。
過去に何度も洪水をおこしできたのが「市川扇状地」なのです。

嘉永6年(1853)に須坂藩家老「丸山辰政」によって書かれ、須坂の伝説や口碑をまとめた「三峯紀聞<サンポウキブン>」にも百々川の暴れようと洪水を抑えようと設けた堤防について書かれています。

三峯紀聞をみると、現在の市街地から米持に向かう「市川橋」辺りは江戸時代に「伊勢宮下」と呼ばれていました。伊勢宮下の道の川端には洪水の際の水を防ぐ石積みが残っていたそうです。
この石積み(堤防)は「越後少将忠輝」が自分の領土とは別にこの地域も治めていたので、それに由来して「少将出し」と呼ばれていたようです。

その後、堤防には「霞提<カスミテイ>」が整備されるなどして市川の洪水対策が行われてきたのです。


神社などの資料を調べると「洪水により紛失」ということをよく聞きます。今ほど治水が発達していない昔には、大雨の度に市川が荒れて洪水が起こっていたのでしょう。
扇状地に発達した須坂の歴史は洪水との戦いの歴史でもあるのです。


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