福島町

田ノ本一秀の句碑

井上地域九反田町の「梅逸翁寿碑<バイイツオキナジュヒ>」については以前にご紹介しました。
その俳人「梅逸」こと穂刈芳太郎<ホカリヨシタロウ>の師匠である「田ノ本一秀」の句碑が今も須坂市福島町に残されています。


田ノ本一秀<タノモトイッシュウ>の本名は「平野栄重郎」といい、文政10年(1828)に旧福島村に生まれました。
当時福島には多くの俳人がいて、その影響からか栄重郎は17,8歳になると松代町の「冬日菴月国<トウニチアンツキクニ(?)>」の教えを受け俳道を勉強しました。
月国の死後は江戸の「月の本為山」の教えを受け、俳道を更に極めたのです。

そして福島に戻った栄重郎は「田ノ本一秀」と名乗り、後に須坂地方の大師匠となったのでした。




一秀は俳諧人には珍しく、酒・煙草を好みませんでした。
更に、句作をすることと、日記などをマメに記録しておくことが楽しみで、それらは広告の裏面に書かれ、雑誌に貼って保管されていたそうです。
その手マメさをかわれ、明治時代になり福島村地誌編集係りの任命をうけたといわれています。

明治10年頃にそれまで須坂俳諧の大師匠であった「桃源舎錦洞<トウゲンシャキンドウ>」が晩年となります。
そうなると須坂の俳諧において、世代交代がおこり、その頃から一秀は審査員として社寺奉納額に名前が残されるようになるのです。
社寺奉納額に審査員(班者)として名が残るということは師匠として認められたということなのです。

その後明治12年から40年までの間に「一秀」の名が書かれた奉納額は須坂市内だけでも20余面もあるのですよ。


明治20年4月、田ノ本一秀の句碑が自宅門前に建立されました。

「伏すまでわ 風に隙なし 糸すすき」


句集「糸すすき集」は、明治20年に還暦を迎えた一秀が、東京より
「月の本素水」を迎えて開いた句会で歌われた句をまとめたもので、
その句集には百七十余の句が載せられています。


田ノ本一秀の弟子は30余人いたとされていますが、彼等が旧井上村内に限らず、周辺町村に散在していることからも一秀は、須坂全体広くにその名が通っていたことがわかります。

田ノ本一秀は福島が生んだ偉大な俳人なのです。






田ノ本一秀の句碑

住所:福島町
名前:田ノ本一秀の句碑
取材日:2006/11/07
更新日:2020/11/10

参考文献

筆塚並先人塚調査書<郷土史研究部>
須坂市人物誌<須坂市人物誌編集委員会>
長野県上高井郡誌<上高井郡教育会編集 千秋社発行>

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