カッタカタの唄

「カッタカタノタ ソリャ カタカタノタ」

この詩は、須坂市にお住まいの方、または須坂市に関係のある方なら、一度は聞いた事のある詩ではないでしょうか?



明治時代より、須坂市は製糸業の盛んな町でした。
当時の生糸の値段は、世の中の動きによって著しく変化するので、「製糸業は生死業だ」などと言われたくらいに、会社経営を左右する要素だったのです。

大正3年、大正9年の大恐慌では糸価は暴落し、須坂の製糸業者の多くが倒産を余儀なくされました。
また、若い頃よりその経営手腕で、次々と成功を収めてきた須坂の製糸王「越寿三郎」が組長(社長)を務める山丸組も、この大恐慌によって、倒産こそ間逃れたものの、かなりの痛手をこうむることになったのです。


大正10年、倒産の危機を逃れた山丸組は、会社再建に向けて奮闘していました。
経営再建ばかり掲げる経営者に、仕事場の雰囲気は暗くなり、工場内では女工達が「品の悪い唄」を歌うようになり、それが問題となっていました。

この状況を重く感じた越栄蔵は、父であり組長の寿三郎に「山丸組の唄」を作ることを提案します。

「再建を果たすにも、働く女工がいればこその話ですから、女工達の心を癒す意味でも、今回の唄つくりを進めたいのです。とにかく雰囲気を明るくしましょう。それが引いては経営再建に繋がることだと思います」

この栄蔵の話の内容に、大事な要素が含まれていると感じた寿三郎は、唄を作ることを認めたのです。



作詞「野口雨情」、作曲「中山晋平」、唄「佐藤千夜子」
そして、この唄には舞踊家「藤間静枝」に頼んで踊りを添えました。

新民謡「須坂小唄」は、大正12年12月に東京の帝国ホテルにて発表され、世の中にデビューすることとなりました。
丁度、日本初のラジオ放送の開始時期とも重なり、レコード化された「須坂小唄」は、全国規模で流行していったのです。


昭和3年、山丸組は長野県内外に11もの工場を持つまでに発展していました。社長である越寿三郎は緑綬褒章受賞<リョクジュホウショウジュショウ>という栄誉に輝き、須坂での祝賀会でこう述べたのです。

「皆さんのおかげで須坂小唄はすっかり有名になりました。聞くところによれば中野(長野県中野市)では中野小唄を町の盆踊り唄として使用しているとのことですが、須坂小唄もみなさんの力で、町の唄として定着させていけたらと思います。」

その背景には、山丸組が依頼して作った唄なので「気安く唄っては山丸組に失礼だ。」「ライバル会社の唄を唄ってならない」などの極端な声を聞き、悲しく思ったことがありました。

せっかく「須坂」の名がついた唄なのだから、須坂の人に愛され、親しまれる唄になって欲しかったのです。



そして現在、
前にも書きましたが、この「須坂小唄」は須坂に関係のある方ならば皆が知っている曲になりました。
広く知られるようになったと同時に、この唄に込められた意味や時代背景などが薄くなってしまっています。

「山丸組」が経営不振に陥った時に作られたこの唄は、現在元気が無くなりつつある須坂に、何か大切な要素を教えてくれるように思うのです。


今年も盆踊りにはこの唄が歌われます。

その前にこの本を読んで、その大切な要素は何なのかを感じてもらえれば嬉しいです。








カッタカタの唄


名前:カッタカタの唄
取材日:2008/03/30
更新日:2021/06/09

参考文献

今回の参考文献
カッタカタの唄 茂木真弘著 随想舎

掲載している探検隊スペシャル