墨坂神社芝宮境内

翁塚「時雨塚」

松尾芭蕉は江戸時代に「幽玄<ユウゲン>」「閑寂<カンジャク>「余情<ヨジョウ>」を重んじる薫風俳諧<クンプウハイカイ>を確立した人物です。

俳諧を学ぶ者の中には松尾芭蕉を敬う者が多く、彼らによって全国各地に「翁塚」と呼ばれる「松尾芭蕉の句碑」が建立されました。
今回紹介する碑は、長野県須坂市に8つある「翁塚<オキナツカ>」の一つです。


芭蕉の句碑は長野県内外に多く建立されていますが、その意図は、
1、記念碑
・芭蕉の五十、百、百五十、二百年忌等を記念して
・芭蕉が来た記念として
・明治時代以降の天皇即位記念
2、それぞれの地域や風光や土地柄に似合った碑
3、諏訪社の分社には、御射山<ミサヤマ>祭りによんだ句を捧げた碑
4、社中、連中、個人が愛吟した碑
が挙げられます。
また、それぞれ碑に刻まれた句の内容から、塚名がつけられているのです。





「墨坂神社 芝宮<スミサカジンジャシバミヤ>」の境内に建立されたこの句碑は、

「けふばかり人も年よれ初しぐ連」

と彫られています。
この句は、芭蕉が元禄五年に残したものなのだそうで、
季語は冬を表す「初しぐれ」です。

「初時雨<ハツシグレ>がわびしく降ってきた。この風情は、老境の人でなければ味わうことができないだろうが、今日だけは皆がこの初時雨の情趣にふさわしく老年の境地にたって、しみじみと味わってほしいものだ。」

という内容なのだそうです。
時雨とは秋から冬にかけて降る一時的な雨や雪のこと。「通り雨」ともよばれています。俳句では冬の季語として用いられているのです。


この碑は幕末から明治時代にかけて須坂俳諧の師匠であった「桃源舎錦洞<トウゲンシャキンドウ>」が中心となり、明治15年9月に建立されました。
「桃源舎錦洞」は、須坂俳諧で多くの門弟を養成した人物で、本名は「羽生田順平」といいました。
今の銀座通り中ほどで野鍛冶職を営み、現在の羽生田鉄工所の先祖なのです。
店の前に柳が一本あったことから屋号「柳屋」を用いたといわれます。
錦洞は、俳諧を須坂藩士高橋赤山から学び、後に須坂藩主の俳諧のお相手役をするまでとなりました。
明治26年に71歳で没しました。

「桃源舎錦洞」の名は、須坂藩第11代藩主堀直格<ホリナオタダ>より賜ったと伝わり、この「桃源舎」の名は、その後、二世羽生田玄司、三世北村芹洞、四世小林農仙、五世西堀島栖、六世羽生田美智と伝えられています。
この碑の補助人に「小田切相雲」「小布施真山」の名が刻まれていますが、両者とも桃源舎門人と思われます。


奥の深い俳句の世界。
この碑を建立した桃源舎錦洞達は、芭蕉への憧れを伝えつつ、俳句を須坂の人々に奨める為に建立したのだと考えられます。
その思いの大きさは、この句碑が須坂市内で一番大きいことからも伝わってくるのです。







翁塚「時雨塚」

住所:墨坂神社芝宮境内
名前:翁塚「時雨塚」
取材日:2006/06/24
更新日:2020/12/18

参考文献

須坂市石造文化財<須坂市教育委員会>
須坂市人物誌<須坂市人物誌編集委員会>
相森中学校付近の文学碑を訪ねて<相森中学校国語科>
信濃芭蕉句碑めぐり<北信・東信編>小川康路編著 

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