南原町にある別名「須坂の小京都」とも呼ばれる寺の並ぶ細道に、一際大きいお寺があります。
それが「大岩山 普願寺<オオイワサン フガンジ>」です。
普願寺は浄土真宗西本願寺派のお寺で、開祖は清和源氏の井上源氏の末裔といわれています。
清和源氏で最も有名な「井上光盛」は、木曽義仲と共に源平合戦において横田河原の合戦で戦い、軍功をあげました。
しかし文治元年(1185)駿州蒲原駅(現静岡県庵原郡)において暗殺されるのです。(源頼朝に・・?)
その後、井上光盛の多くの部下は源頼朝の御家人となったりしましたが、関東でおとなしく暮らしていた一部の人々の中で常陸国稲田<ヒタチノクニイナダ>(現茨城県辺り)にてひっそりと暮らしていた親鸞聖人に帰依<キエ>した人物がいました。
普願寺初代住職「賢阿房信性」です。
賢阿房信性の俗名は「業田次郎義遠」といい、井上氏の子孫にあたります。現住職の姓は「業田」です。
賢阿房信性の父「井上義勝」は親鸞の教えに深く傾倒した人物で、所領の磯部に勝願寺を建立しました。
その後、義勝に従った6名の武士が、井上義勝の影響を受け、「磯部6ヶ寺」を建立したのです。
「笠原本誓寺」「久保勝善寺」「現勝善寺の前身である中俣勝善寺」「平出願生寺」「長沼西巌寺」「大岩普願寺」が磯部6ヶ寺です。
建立後全ての寺が信濃の国に移転しているのですよ。
明治12年の寺院明細帳によると正和3年(1314)に本願寺覚如上人より「普願寺」の寺号をうけています。
その頃普願寺は日滝地域本郷の「十王堂」そばにあったのだそうです。
その後堂の焼失があり、北原に移ったとされていますが、弘治元年(1555)に現在地に移転しているのです。
普願寺には檀家も多く、一時は寺内8ヶ寺にまで発展しました。
現在は5つの寺が残り独立した本山末になっています。
今回は「普願寺」の成り立ちについて書きましたが、この普願寺内には紹介したい事が沢山あります。
それはまた調べながらおいおい紹介します。<