長野県須坂市本郷の蓮生寺内の秋葉神社境内に「牧祥周翁碑<マキショウシュウオキナヒ>」があります。
このような碑は、頌徳碑<ショウトクヒ>と呼ばれ、功績などを納め、周りからの信頼や人望が高かった人物の徳を讃えるために建立される石碑で、この頌徳碑に讃えられている人物は牧祥周<マキショウシュウ>です。
この碑は明治35年3月に建立されました。
頌徳碑に刻まれた文は以下の通り
牧 祥周の碑
信陽墨坂之東天狗嶽之麓馳誉丹青者為湖岳牧翁天保八年十二月生年甫ニ才考又左エ門君没少社紹家勤倹自守奉碑妣氏郷党称其李明治七年初撰為副戸長爾来十有三年進戸長学務委員為県会議員勉職忘私修道路興学校設郷倉栄邨署等翁之力居多受常賜者前後数次云歳之丙戍翁弓却命之年退職自優翁初称佐野右エ門是年改名祥周号湖岳姓素嗜絵事甞受其法於高井鴻山氏又就須坂藩士牧量氏学測度製図之術明治十五年奉官作其郡図特賜褒書南信北越之間聞出競来□翁々未□為足欲益究六濂之妙告□亡後一来東京敲松本楓湖氏之門細論其大有所得還郷専以□灑遣興為尤長人物萃草□毛其描前賢遣釈多倣□眼季氏之筆翁在僻邑名声日振出於邑人併天狗岳之勝与翁之偉呉今茲千寅翁齢六十六郷人将□石銘徳祈天賜微銘於余々之文固□不足発翁之光東久世伯特顕其額□亦可謂栄矣銘曰
天狗岳 燐号□□ 維翁植生 □□□□ 内学外格 半生□々
修隠書芸 声誉複発 郷□祈寿 □□山骨 巨霊恒譲 □□□□咄
□詔明幽 弓永歳月
明治二十五年歳次壬寅十二月東京雲鵬亀田英選文並書
牧祥周の本名は「牧 佐野右衛門<サノウエモン>」。
天保8年(1838)に須坂市本郷にて生まれました。
幕末の須坂藩に仕え、測量技術に優れた力を発揮した「牧 量<ハカル>」の甥にあたります。
絵を書く事を好み、叔父の量<ハカル>につき測量術を学ぶ傍らで、小布施の「高井鴻山」、東京の「松本楓湖<マツモトフウコ>」に入門して絵を学びました。
その時より自らを「牧祥周」や「湖岳<コガク>」と名乗るようになりました。
明治を迎えた時、祥周は30代。この頃には周りから衆望を集める人物となっていました。
明治5年に区制がひかれると、日滝<ヒタキ>、大谷<オオヤ>、高橋、相森<オオモリ>の4ヶ組が合併し「日滝村」となりました。
その時に、衆望の厚い祥周は斡旋<アッセン>に抜擢されるほどでした。
日滝村戸長<ヒタキムラコチョウ>の時には、丁度明治の諸制度が整えられた時期と重なり、小学校の新設、相森からの通学路整備、役場の整など多くの事業を残しました。
特に叔父である牧 量に伝授された佐野右衛門の測量技術は、現地目調査の切図として今も村内外に多く残されていて、遠くは南信や北越にも招かれて測量の指導をしたと伝わっています。
その測量技術は当時の文部大臣より賞金、褒賞を受けたほどの素晴らしい技術を持っていたそうです。
絵画においては、宗教色の濃い絵を残しているようで、善光寺奉額、須坂市浄念寺の壁画、欄間絵、蓮生寺、満竜寺、日滝観音堂奉額などがあります。
(2009.10.11改訂)