奥田神社境内

中島淡水頌徳碑

須坂市常盤町にある奥田神社の境内に中島淡水の頌徳碑があります。

淡水は文政4年(1821)に現在の須坂市春木町に生れました。
淡水の父は須坂藩に「御種貸役(おたねかしやく)」という、凶作で困った農民に種を貸す役人として仕えていましたが、若くして亡くなってしまいます。
その後淡水は叔父である中島元洞によって育てられました。

学問が好きだった淡水は、藩校「立正館」で勉学に励みます。
大人になり須坂藩の祐筆という藩の文書や記録を作る役人として仕えるようになりました。
 

文久元年(1861)、藩主堀直虎による藩政改革によって隠居を命じられ、藩の仕事の傍らで藩医若村寿水より学んだ医術に専念することにします。藩命によって佐久間象山より種痘術を学び、天然痘予防の重要な業績をあげました。

明治時代になり学制がひかれると、薬剤師山下八右衛門俊明と共に小学習字帳十二冊を刊行しました。書家としても名の通った淡水は門弟が1000人を超えたと伝わっています。

淡水の養子「励太郎」氏は初代須坂小学校校長を務めました。




頌徳碑に刻まれた文は以下の通り


中島淡水翁衣□蔵碑銘

東京 雲鵬亀田英篆額

須阪淡水翁以臨池之枝鳴千信中者三四十年弟子以千数尤善方文字又酷嗜酒乞神幟大署
者皆踵其門方其大得意也鯨飲三斗援筆而起其布五幅七幅戓至十幅其筆如巨?管長六七
尺肩檐而揮之墨潘雨麗□龍騰攫書訖而頽醉鼾聲雷?觀者莫不辟易驚嘆矣年泊古稀其態
如故翁諱網條通称才輔中島氏号淡水而自遠祖彈正左衛門諱盛綱世住上高井郡高梨至考
治郎介諱守綱移須阪仕堀候翁亦少事同候累進右職性跌宕不羈興俗不諧年三十六而告退
東遊江戸學経術亀田綾瀬鶯谷二先生之門受書法菱湖巻氏既歸以句讀書學訓督後進明治
二十八年八月十四日疫没壽七十有五易簀之際猶日吊我者必多飲酒以遺嘱其人云子勵享訥
皆有文芸翁既葬子臥龍山下螢次諸弟子猶欲樹石通□以廣其傅焉乃ト地奥田社内□衣
以為神遊之所謀銘其碑者余興北村公府皆興翁同門而相親也遂屬余係辞公府書之銘日

寵辱不知 毀誉不聞 世皆齪々 我獨醺々 筆陣叱麾 一掃千軍
臥龍之山 露骨歛墳 鬱彼蒼松 千秋清□ 

明治三十一年酉歳五月
東京 撫山中島慶 撰
長野 一邱北村方義書

 


 

 



中島淡水頌徳碑

住所:奥田神社境内
名前:中島淡水頌徳碑
取材日:2011/12/16
更新日:2021/10/27

参考文献

筆塚並先人塚調査書<郷土史研究部>
広報すざか平成21年3月1日号<須坂市総務部政策推進課>
その他参考資料

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