須坂市仁礼町にある「高仁神社(たかひとじんじゃ)」境内に「楠公(なんこう)父子像」があります。
この像は南北朝時代に楠木正成が足利尊氏との戦に向かう途中で、大阪の桜井という里で正成の子「正行<マサツラ>」との別れの場面を再現した像です。
楠木正成は現在の兵庫県神戸市にある湊川<ミナトガワ>で「七生報国」(七度生まれ代わって国に報いる)の言葉を残して討死します。その後正行も父正成と同じく後醍醐天皇のために討死をしてしまうのです。
こうした楠木正成、正行の行動が主君に対する父子の忠誠を現した良い例として、戦前の日本の軍国主義教育の中で大きく取り上げられたのだそうです。
戦後に軍国主義を表現したものが多く破壊された中で、こうした像が残されていることは全国的にも珍しいのですよ。
地元の方の中にも「あの像は何だろう?」「何であるの?」と思っている方も多いはず。
過去の「軍国主義教育」の中で作られ、
その後の「軍国主義一掃」という重圧の中でも
こうして残されているこの「楠公父子像」の意味と歴史背景を後世に伝えていくことが過去の戦争の反省と教訓を学び伝えていく上で必要なのだと思いました。
青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ 木の下陰に駒とめて
世の行く末をつくづくと しのぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か
この歌は、明治三十二年(1899)に小学唱歌に選定された落合直文作の『桜井の訣別』という歌です。そのころの誰もが知ってた歌なのだそうですよ。