水は生命の源であり、生活する上で必要不可欠なものです。
しかも長野県須坂市は「裏川用水<ウラガワヨウスイ>」というこの地域独特の用水活用をし、発展してきました。
須坂市南原町と大日向町の境にある分水口は米子川より流れる水を
・坂田、日滝方面(日滝用水)
・須坂市街、馬場町方面(町用水)
・小山、屋部、八幡方面(小山郷用水)
の三方向に分岐する地点なのです。
この場所は江戸時代の絵図には既に登場していて「大口伊勢宮」と記されているそうです。
須坂の生命線ともいえるこの地は同時に水害も起りやすい地点でもありました。そこで水難除けに「伊勢社」が祀られているのです。
大正11年には地元有志と須坂町によって「墨坂神社 芝宮」より水難の神、用水の神とされる「水神宮」を移し、「伊勢社」と共に祀るようになりました。
祭日は5月1日。
水神様へのご加護のお礼と祈願をするのです。
祭祀は用水が盛んに使用されていた明治大正時代頃、水利用関係の人達によって盛大に行われていたのだそうです。
この「水神宮」の取材の際に一人の老人のお話を聞くことができました。
その老人は昭和11年に生まれだそうで、
「俺はあの石を積む事を手伝った。
(石祠を置いてあるぼた餅石の御鎮座所で昭和28年に完成した)
昔はこの水神様にあるような大きな木が幾本も山に向かって植えてあったんだ。あの木は一見ケヤキのようだが、実は槻<ツキ>という木なのだよ。ケヤキより葉が多少大きい。
槻はケヤキよりも堅い木だからあの太さになるまでには何百年も経っているのだろう。
あの頃はこんなに様子が変わるとは思っていなかったのだよ。
数年前に「豊丘村誌」の編集を手伝ったのだが、過去のことを後世に受け継いでいくことは難しい。」
と言っておられた。
確かに現在の様子や文化を後世に残していくことは難しい。
ましてや昔のことともなると更に難しい。
しかし、過去に作られた1つの石碑にしてもお宮や神社にしても、作るにあたり携わった人がいるわけで、そこには祈りや希望や何かしらの気持ちが込められている。
その意義を受け継がずして無くしてしまってはいけないのだと思う。
そうした気持ちが郷土愛につながり、地元を想う気持ち、地元を誇れる気持ちに繋がっていくのではないだろうか。