野辺町

冨沢喜右衛門之碑

野辺町の桜の木北向観音堂の裏に「冨沢喜右衛門」と刻まれた碑があります。

長年村長を務め、数々の功績を上げた冨沢喜右衛門を讃える碑でありますが、なかなか彼の功績については知られていません。
 


以下、野辺長区誌より転載

第64番屋敷居住の第3代高甫村長覚右衛門の長男。
青少年時代のい様子はわからないが、父覚右衛門が明治17年に野辺村戸長として、自宅を役場にして事務処理以来諸種の公務に就き、同28年5月には高甫村長に就任したので、多分に父親の影響を受けて成人したものと思われる。
壮年期には高甫消防組野辺部幹部として活躍した。大正3年(1914)11月、丸田亀作に次いで第11代高甫村長に就任し、その後第12代も引き継いで務め、8年4月まで4年7か月在任したが、ちょうど日本が第1次世界大戦に参戦した時代で、村人の生活にも欧米の文明が流入し始めたころである。

在任中の彼のおもな事績としては、大正5年の市川橋の大修理、同年野辺から発生して上・下八町に広がり、また6年に、村石より発生して患者60人、死者19人を出した赤痢病対策、7年には村石へ、8年には野辺・八町へ電灯の引き込み、8年には養蚕組合とホップ組合の設立、高甫小学校舎増築費として、村費年額5000円の5年間積立て実施などである。
そして、15年2月に第16代として、3期目の村長に就任して、小学校平屋建4教室を、2階建て玄関付8教室の新校舎(工費3万461円)に増築した。
村長在任中は第3代と7代の高甫村消防組頭を兼任した。
しかし大正15年(1926)12月現職のまま急逝した。
資料不足で事績の全容を記すことはできないが、死去後数年して遺族は他へ転居してしまい、その後の消息はわからない。
 



死後数年と記載がありますが、石碑の側面に「昭和弐年四月十五日建立」と刻まれています。



冨沢喜右衛門之碑

住所:野辺町
名前:冨沢喜右衛門之碑
取材日:2016/08/03
更新日:2021/12/14

参考文献

野辺町区誌<野辺町区誌編集委員会>

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