長野県須坂市の偉人として真っ先に出てくる人物は「越寿三郎」ではないでしょうか。
「越寿三郎」は製糸王とまで呼ばれた人物で当時従業員が6000人以上もいた「山丸組製糸業」の創始者であり、信越電気株式会社(現中部電力㈱)を起こし、信越窒素肥料株式会社(現信越理化学㈱」)も起こしたのです。
正に須坂の偉大なる産業人です。
その「越寿三郎」が次男「泰蔵<ヤスゾウ>」のために購入した家が、現在も春木町に残されています。
「山丸一番館」と名づけられたこの館は、平成10年に土地建物を須坂市が譲り受け、現在は高齢者のふれあい施設、各種歴史資料の保管と研究施設として利用されています。
「山丸一番館」とは、この建物の電話番号が昔「1番」だったことからつきました。1番ということは須坂で1番目の電話ということなのです。
施設内で目を見張るものは玄関の切石の大きさ。
これは須坂市内の「クラシック美術館」の玄関の切石に匹敵するくらいの大きさがあるのではないでしょうか。
あと、畳36畳にもなる客間も圧巻でした。
客室の梁<ハリ>も太く見応えがありますよ。
やばい!!見所満載。。
歴史資料の展示物で「越寿三郎の名刺」が飾ってありました。
表には「越寿三郎」
裏には「舌代」と書かれた次の文が印刷されています。
當分之間左之通相守申候間不相変御引立之程願上候
(「当分の間、左に書いてあることを守るので、付き合ってください」という感じのことらしい)
一、時間を守るべき事
一、酒盤凡て手酌之事(酒は手酌で飲む)
一、盃之献酬をせざる事(酒を飲み交わさない)
一、自他共飲食を強ひざる事(飲食で無理をしないさせない)
一、宴会は一時間限り之事(宴会は1時間にする)
名刺の裏にこのようなことが書いてあるのです。
面白いですね。
ある意味、現代の社会にも必要なことかもしれませんね。
その他、山丸組の社員の法被<ハッピ>が「三越呉服店」の当時の袋と共に展示されていますし、芸術家「吉田博」の明治時代の須坂の様子を書いた風景画も飾られています。
ホント見所満載なのです。
この「山丸一番館」の建物は質素でありながら、要所要所が凝った作りをしています。(あちこち細かく見てください)
平成15年には国の有形文化財に指定されました。
手入れの行き届いた庭に綺麗な紫陽花が花をつけていて、その奥の明治時代に建てられたのであろう家屋との風景がとても印象的でした。