長野県須坂市は明治時代より昭和まで製糸業の盛んな町でした。
市街地には製糸工場が立ち並び、須坂の周りの町では養蚕が盛んに行なわれたのです。
当時養蚕は農家にとっては米作以上の産業でした。
山を切り開いて桑の樹を植え、家屋は寒さに弱い蚕の為に火を焚きます。養蚕農家の家の屋根では「煙出し櫓」とよばれる櫓<ヤグラ>を備えました。
須坂市豊丘町もそんな養蚕の盛んだった町の1つです。
豊丘町梅ノ木地区より車一台が通れるほどの山道を登っていくと、急に視界が開けます。そこに石でできた鳥居があります。
その鳥居の奥には弁天池があり、その裏手に「養蚕社」が祀られているのです。
昔、この辺りの山際の開けたところは見渡す限りの桑畑だったのだそうです。
蚕は寒さに弱かったり病気になりやすかったりと飼育が難しく、また霜の被害で桑の葉が採れないこともありました。
そのようなことから、桑畑だったこの地に、桑の葉と繭の多収量を祈願し「養蚕社」が祀られたのです。
特に昭和2年5月12日の長野県をおそった「大霜害<ダイソウガイ>」はひどいものでした。13日の信濃毎日新聞の大見出しは
「けさ全県下にる慘たる大霜害、被害桑園三万町歩におよぶ。春蚕掃立<ハルコハキタテ>を前に控えて養蚕農家途方に暮る」
と報じたそうです。
桑畑は真っ黒。農家は真っ青。になったそうです。
この大霜害が須坂における昭和不況時代の予告ではなかったかともいわれるほどです。
1回の霜害や病気によって多くの蚕を失い、収入を大幅に減してしまう養蚕農家にとっては、正に神頼みの思いが強かった事と思います。
特に天候が相手では、人間はどうすることもできません。
「養蚕神」と彫られた大石は、灰野川より一日がかりでこの地に運ばれたのだそうです。
この石碑を眺めていると「そんな労力も神様に祈願するためには惜しまない」そんな養蚕農家の必死な思いが伝え合ってくる気がするのでした。