生糸改会社

幕末から明治時代にかけて、蚕種・生糸は有利な貿易品として全国的に発展しました。しかし生産技術が追いつかずに粗製濫造品が横行したのです。

その事は須坂の蚕種・生糸製品にもいえたことで、そうした事を防ぐために須坂では、生糸品質を検査し、生糸品質を一定とする事を目的とした「生糸改会社<キイトアラタメカイシャ>」が明治6年に設立されました。

その須坂蚕種・生糸業の将来において要となった会社社長になったのが山三牧屋<ヤマサンマキヤ>の「牧茂助<マキモスケ>なのです。


牧茂助は当時の豪商「牧清右衛門」の次男に生まれ、牧家の支族「牧茂助」の養子となりました。実兄は「牧新」で有名な「牧新七」なのです。
「茂助」とは養父の名を襲名したので、茂助の幼名はわかっていません。

自家の製糸所は「山三牧屋<ヤマサンマキヤ>」の屋号で経営をしていました。ちなみに本家牧新七の屋号は「山一」です。

現在も須坂市銀座通りに残る邸宅の鬼瓦には牧家の家紋、丸二と山三の屋号を見ることができます。

牧茂助が社長を務めた生糸改会社設立をきっかけに須坂において生糸品質向上の動きが高まりました。
その後、製糸方法を同一にして生糸品質安定を目指すとともに出荷量も多くして諸外国との貿易を有利に行うことを目的とした、全国初の製糸結社「東行社<トウコウシャ>」設立へと動いていくのです。

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