坂田町

坂田浄水場

長野県須坂市を流れる米子川、百々川、松川などの河川の源には硫黄鉱床があり、その水質は強い酸性を示します。こういった川は「酸川<スカワ>」と呼ばれていて、これほど酸川が集中している地域は全国的にも例を見ないのだそうです。

明治初期まで町の中央を流れていた百々川の水は「裏側用水」によって町内のいたるところに行きわたって、飲料水や製糸用水に使われました。




明治19年(1886)に、全国的にコレラが発生し須坂でも蔓延してしまいます。
コレラの蔓延により製糸業は大きな損害を受けたのと同時に酸性水利用よる生糸の品質低下の実情を知ることになったのです。

そのようなこともあり明治21年に製糸業者である「東行社」「俊明社」によって豊丘村より土管によって簡易水道がひかれたのです。当時まだ私営であり、一部の住民しか使えなかったのですが、明治27年に一般に開放されたのだそうです。

やっと完成した水道も人口の増加で不足を招き、更に上流の硫黄鉱山の採掘で鉱毒化してしまい使用ができなくなってしまいます。
そのような困惑の中、大正15年(1926)仁礼の奈良川、灰野川合流付近に水源地を見つけ、今回紹介する「坂田浄水場」が完成したのです。(前置き長すぎ・・・)

施設内には、コンクリート製の緩速ろ過池3池と配水池2池を設置し、径200mm鉄管1.500mにより導水、径75mm~200mm配水管1万1994mを敷設し、灰野川の水源よりすべて自然流下により導、配水しました。

大正15年10月15日の信濃毎日新聞の紙面には「須坂水道竣工式」と「祝賀会」の様子が書かれいるのですが、花火があがったり、催し物があったりとまるでお祭りのようです。
いかに須坂住民が水道の開道を待ち望んでいたのかが見て取れます。

現在も坂田地区に約80年前の浄水場施設が残っていて、見ることができます。管理施設の建物がレトロでいい感じ・・・。

「裏側水道」でわかるように「水」は須坂の歴史を紐解く上では欠かせないものです。
しかし身近にあった「水」は酸性度が高く生活には不向きだという現実。
それを克服しようとした人々の希望と努力の結晶が「坂田浄水場」であり、現在の水道なのですね。

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